モーテルに泊まろうラマダ キングマン RAMADA Kingman [2016 USA Puerto Ricoの旅]

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明日の夜はどこに泊まろうかとipadを開く。
どうせなら、アメリカの映画に出てくるような、街道沿いのしかも周りには
何もないような場所のモーテルに泊まりたいと思った。

そこで選んだのが、アリゾナ州のラマダキングマンだった。
キングマンはルート66が栄えていたころの要所だ。
現在人口7万人弱らしいが、このホテルはその小さな町のはずれに立っていたのか
まわりは何もないに等しかった。

夜レストランに行こうかと車を走らせるも、まずそうなダイナーと中華料理、
そしてハンバーガーチェーンがあるだけ。しょうがなくハンバーガーチェーンで
テイクアウトするかと近づくと、ローストビーフでお馴染みのアービーズがあったので
久しぶりと購入して夕食にした。

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ホテルは、入り口にスカイブルーのクラシックカーが陳列され、ルート66と大書きされた
看板が下がり、それが好きな人のハートにはビンビン突き刺さるのだろう。
中はきれいで、ベッドも大きく、プールが心地良さそうで好印象。
しかし、プールの入り口がカギが掛かっており、フロントに伝えたら、すぐ行く
と言われ待つこと20分。入ろうとしたプールは水が冷たすぎて断念。

古い街道沿いのモーテルは、想像通り、アメリカ的ドライなものだった。
まあ、それを期待していたような部分もあり、そういう意味で期待を裏切らないで
いてくれたともいえる滞在だった。

ルート66は既に過去へ [2016 USA Puerto Ricoの旅]

セドナからフラッグスタッフに戻り、そこからFreeway40号を西にひた走る。
次の見どころはルート66だ。いわゆる昔の街道である。

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アルバカーキーからは、Freeway40 号に沿ってずうっとルート66が走っている。
だからどこでもルート66の痕跡を見ることが出来る。
しかし、ルート66というとセリグマンからキングマンまでの間が有名らしい。

そうこうしているうちに、1軒のジェネラルストア(いなかの雑貨屋)が
見えてきたので立ち寄った。

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そこは観光客でいっぱいだった。
店の中はルート66っぽいお土産グッヅで溢れかえっている。
ステッカーやナンバー-プレートから、当時っぽい洋服までいろいろだ。
当時は洗剤や日曜食品で溢れかえっていただろうに。
人が多いこともあって、残念ながら当時にタイムスリップすることは叶わなかった。

一観光客の身分でありながら、観光客の多いところは苦手だ。
そして、観光客を当て込んで作られた店も苦手だ。
まがい物臭がするものは嫌いなのだ。

こんな所で今の時代に作られたMade in ChinaのTシャツを買う気はさらさらない。
心を動かされることは全くなく、早く退散したくなる。

だから、テーマパークの類も好きになれない。
その延長で、儲けたろとギラギラさせている輩も遠慮したい。

年齢とともにこの傾向は強まってきたような。
加齢による偏屈化が順調に進んでいるのか、本物志向になってきたのか。
真相は闇の中だ。

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憧れのセドナへ Sedona Dreamin [2016 USA Puerto Ricoの旅]

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今回の旅は魅力的な見どころのオンパレードな行程だが、
サンタフェ近郊の先住民文化を東の横綱とすれば、セドナは西の横綱だ。

僕がセドナのことを知ったのは2006年のこと。仕事で調べものをしているとき、
地球の磁場が通っていると言われるセドナのことを知った。それ以来、ずっと
訪れることを願っていた。

フラッグスタッフから17号線を下っていく。
遠くに雪をかぶった山が見える。
しばらく行くと、あっと息を飲んだ。奇怪な形をした岩山が見え始めたのだ。

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初めて見る赤い岩山。それがあちこちに点在している。
その中でもベルの形をした均整の取れた岩山が見えてきた。
ベルロックだ。ベルロックは男性性の高い山で、直感と決断力の山と言われる。

翌日早速、この山に登った。
小さな岩山なのでベースまでのトレッキングなら片道30分位でOK。
そこから上にいけるのだが、決まった道があるわけではない。
なんとなく登れそうなところを登っていく感じ。
自分の道は自分で切り開くということか。
50代くらいまでの普段運動している人ならなんとかこなせると思う。

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ある程度登ると、これより先は危険と本能的に分かる地点がある。
そこで断念して下を眺める。

乾いた広大な大地。
周りを取り巻く岩山たち。
そこには力に満ちた静寂が横たわってた。

今回のセドナ訪問で、よく言われるように「セドナでパワーを感じた」ということは
僕には起こらなかった。
願っていたところに来れた感動に包まれ、そこでわずかな思い出を
作ることが出来たという至って普通の体験だ。

これまでを振り返ってみて思うのは、旅って、みなそんなものだ。
でもそれでも振り返ると心に確実に刻み込まれている。

その場所がパワーなのではなくて、思い出がパワーになるのだ。
僕はそう思う。

オリーブガーデンでお昼を in Flagstaff [2016 USA Puerto Ricoの旅]

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バリンジャー(メテオ)・クレーターを見たあとフリーウェイ40号線に戻り、
途中フラッグスタッフ(Flagstaff)という町で昼食をとった。入ったのは
「Olieve Garden」というアメリカ人の好きそうなイタリアンのチェーン店。

何から何まで大きく、ウェイトレスも気前が良かった。コーラは特大の透明
プラスチックのコップに注がれ何杯でもおかわり自由。おまけに店を出るときは
新しいものを持ち帰り用特大容器に入れてくれる。パスタのチーズかけサービス
もパスタが完全に見えなくなり、チーズが層をなすまで上から振りかけてくれる勢い。
焼きたてで出される塩パンも美味しく、これまたなくなるとお代わりが出てくる。

たまたま両隣の別々のテーブルに女子高校生二人組と30代女性二人組がそれぞれ
座った。女子高生は今どきのアメリカン・ティーンで痩せている。でも食べる
量はすごい。30代女性は二人とも見事な体格の持ち主だ。彼女たちの体型を
見ていて何だかビフォーアフターを見ているようだった。灼けつくようなアリゾナ
の太陽を見ていると体型などどうでもいいと思えてくる。そのせいか皆さん押し
なべて肥えていらっしゃる。体型なんていうのも実はいい加減なもので、住んで
いる環境に左右されるものなんだろう。

しかし、こんな料理が続くとしみじみ味噌汁が飲みたくなるのだ。

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大隕石の跡 バリンジャー・クレーター Meteor Crator [2016 USA Puerto Ricoの旅]

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隕石や鉱物なんてのは興味のない人には眠たくて仕方のない話題だ。
僕もそれだけを見せられて講釈ぶたれたらつらい。でも河原で変わった石を
拾ったりキャンプで流れ星を見たりするとそういうものに俄然興味が沸いて
くるから不思議だ。

今回、道のりの途中に大隕石が落ちて出来た穴があると知ってこの目で見て
みたくなった。

訪れたのはホールブルックとフラッグスタッフという町の間あたりに位置する
バリンジャークレーターだ。wikipediaによるとここは今から約5年前に宇宙から
飛来して落ちた隕石によって出来たクレーターで直径約1.2-1.5キロメートル、
深さ約170メートルとのこと。このあとの説明がまたすごい。ちなみにウィキ
ペディアは個人が書いている情報で正しくない場合も多いので参考のみに留めて
おいて欲しい。以下ウィキペディア抜粋。

バリンジャー・クレーターを作ったのは直径約20 - 30メートルの鉄金属隕石 である。隕石は太陽よりも輝かしく燃えながら大気圏を通過し、時速4万キロ メートルを超える速度で落下したと考えられる。そして、地上に激突した隕石は 凄まじい爆発を引き起こした。そのエネルギーはツングースカ大爆発の3倍を 超えると推測される。
(以下一部省略)

衝突地点ではあらゆる物質が融解・気化し、高温高圧によって炭素からダイヤ モンドが生成された。衝突によって生成されたダイヤモンドはクレーターの ごく近くと、ディアブロ峡谷でのみ発見されている。衝突はマグニチュード 5.5以上の地震を引き起こし、クレーターの外側にあった30トンの石灰岩の塊を 突き動かした。

衝突地点から半径3キロメートルから4キロメートル以内の生物は、衝突と同時 に死滅した。その後、衝突によって発生した巨大な火の玉によって半径10キロ メートル以内のあらゆる物質を焦がし、時速2,000キロメートルに及ぶ衝撃波が 半径40キロメートル近くまで広がり、半径14キロメートルから22キロメートル までのすべてを何もない荒野に変えた。しかしながら、この衝撃が地球の気候 に大きな影響を及ぼすことはなく、100年ほどで動植物が再び根付いた。

クレーターを見た瞬間はやはりそのスケールに圧倒された。
しかし、その後館内で月のクレーターとの比較図を見たときに戦慄が走った。
目の前のクレーターでさえスタジアムが数十個入る規模なのに、月のクレーター
はこのクレーターが数百個入る大きさだという(うろ覚えの情報です)。
月のクレーターを実際に見たとしたら、その広さ、深さに恐怖を覚えるかも
しれない。

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化石化した木。2億年以上も前に出来たと推定。クレーターの近くに「化石の森国立公園」
がある。

走れホールブルックへ Albuquerque to Holbrook [2016 USA Puerto Ricoの旅]

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サンタフェを後にして次の目的地ホールブルックへ向かった。
本当は午前中にサンタフェを出たがったのだが、出たのは夕方5時近くになって
しまった。今回アレキサンダー・ジラルドのフォークアートミュージアムの
閉館時間17時を目指して車を走らせたが間に合わなかった。ここは必ず寄り
たかった所だったのでとても残念だ。しかし、アルバカーキーからロサンゼルス
まで走ってそこから日本行きの飛行機に乗らなければならないため、先を急がな
ければならない。それに明日からも各所での見どころが待っている。

次の目的地ホールブルックはかつてのルート66の宿場町的な町で、あるブログに
よると1884年にアメリカで2番目に大きい牧場が出来、1000人のカウボーイが
働くことになり、町はアウトローがはびこり荒れ放題になったとある。1914年
までは教会もなく、絞首刑が行われていた唯一の町だったそうだ。

さて、夜21時くらいになんとかホールブルックに着いた。途中午後から日が沈む
までのフリーウェイは、西日が低い角度から強烈に車内全てを照らしてきて相当
きつかった。

ホールブルックに入って目に付いた田舎のダイナーでステーキの夕食をとったあと
街道沿いのトラベロッジ(Trabelodge)というチェーンの安宿に滑り込み、
ベッドに吸い込まれていった。

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サンタフェで考える SantaFe,New Mexico [2016 USA Puerto Ricoの旅]

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サンタフェの町はすごく憧れだった。真っ青な青空の下に土壁の家々が続く町を
勝手に想像していた。しかし、のちにそれはタオスなどの建築のイメージなど
が混ざってごっちゃになっていたことが判明した。サンタフェは青空のもとに
整然と低層階のきれいな建物が並ぶ街だった。

人って勝手に美しく思い絵描きいつか訪ねたいと思っているシャングリラが
誰にでもあると思う。ついぞ行くことはないものかもしれないが、シャングリラを
持つことは人生を豊かにしてくれる。しかし実際訪れてみると、想像していた
ものとは違うということが多い。

今回、訪れたサンタフェは近代的なアメリカとネイティブのアメリカが混ざり合う
前線基地だった。そこにはネイティブアメリカンの村もなく、彼らもいない。
そこは今を生きる外部の人間が自分たちの解釈でネイティブアメリカンの味付けを
した産物を提供している町だ。

ネイティブアメリカンに会いたくてアメリカを訪れる。
でも本当にネイティブアメリカンを見たいんだろうかと自分に問う。
作物も育たない乾燥した居留地、仕事もなく酒とドラッグで気を紛らわす。
アイデンティティの回復もなされず、貧困と暴力と絶望が日常に横たわる村。
一部カジノで潤っている居留地もあると聞くが、多くの部族は今もこの状態に
置かれていると聞く。

たぶん見たいのは、青空のもと自由に生き生きと自分たちの土地で生きる
ネイティブアメリカンなのだろう。世界どの土地に行っても、祖先から引き
継いできた伝統を受け継いで生き生きと暮らしている部族に人は魅せられ
大事な何かを感じるのだと思う。

新しい風の吹くアメリカの町サンタフェでそんなことを思った。

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タオス・プエブロ(TAOS PUEBRO)への道 [2016 USA Puerto Ricoの旅]

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5/3にタオス・プエブラ(TAOS PUEBRA)というタオスにあるネイティブ
アメリカンの村で「サンタクルーズ村祭り」(Santa Cruz Feast)が行われる
ため訪れた。タオスと言えば、1000年以上も前に作られたアドビレンガの
集合住宅が有名で、1992年には世界遺産登録されており、今でも電気のない
住宅には150人もの人が暮らしているらしい。

タオス・プエブロの村は長い歴史を感じさせるものでとても魅力的だった。
ただ、祭りを見学していたため村をじっくり回ることが出来なかった
のが残念だった。この村の土のかまどで焼くパンを食べ、有名な工芸品
の店をのぞくことが叶わなかった。しかし、この村に至る道が素晴らしかった。

実は我々は通ったのはアビキューから誤って舗装されていない土の細い道に
乗り入れてしまったのだが山の上からリオグランデ(川)に至るまでの景観は
自然そのもので、荒々しくも美しかった。途中道を聞いたタオスに住む白人女性
アーティストのロビンに、「リオグランデの水に触れて清めていきなさい」と
教えられたり楽しい出会いもあった(ロビンの娘が福岡第一高校に交換留学生
として行ったなどとローカルな話を聞かされる)。

このあと、ルート修正をして、「リオグランデ・ジョージ橋」を渡ってタオス
に向かった。観光バスが数台停まっていたがそれくらい眺めは素晴らしい。
途中意外なことにビール工場(TAOS MESA BREWING)もあり、立ち寄って
お腹を満たした。

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ダートな道(CarsonからPilarに向かう567号線)

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リオグランデの水に触れる

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全米でも有数の景勝道路とのこと

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リオグランデ・ジョージ橋よりリオグランデを眺める

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TAOS MESA BREWING

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ジョージア オキーフに会いに [2016 USA Puerto Ricoの旅]

20世紀のアメリカ現代美術を代表する女流画家の「ジョージア・オキーフ」
の絵をずいぶん前に見てから一度訪ねてみたいと思っていたのが、
ニューメキシコのサンタフェから数十キロ北へ行ったところにある
彼女の住まいだ。

ニューヨークで生活していた彼女は62歳から98歳で亡くなるまでの
30数年をアビキュー(Abiquiu)とゴーストランチ(Ghost Ranch)の
2つの家で過ごした。

今回は前日にサンタフェのジョージアオキーフ・ミュージアムで彼女
の絵を見てから翌日のアビキューの家を訪れるツアーに参加した。
そのため、アビキューインというホテルに宿泊した。この日は例外的
に寒く、部屋の暖炉が有難い。宿は自然の中にポツンとあるので
夜になると満点の星が見られる。夜中に車で近くの山道に分け入り
ヘッドランプを消すと満天の星と流れ星を見ることが出来た。
恐ろしいほどの静けさだ。途中ヘッドランプが野ウサギの姿を映し出した。

昼間見たオキーフの家は居心地が良さそうだった。しかし、太陽が
沈んだ夜は寒さと静けさが襲う。来客は多かった様子だがそれでも
使用人を除いては一人の時間が多かったことだろうから、孤独を
感じてもおかしくない。実際はどうだったのだろう。彼女の絵も
さることながら、こんな厳しい自然の中で数十年暮らした彼女の生き方に
魅せられる。

家の中のあちこちに集めた石が置いてあった。
比較的大きめの石達で石好きの自分にとっては飽きることがない。
石、木、骨は彼女が好んで部屋に置いた素材だ。これだけ圧倒的な
自然を毎日眺めていたら人工的なものには興味がなくなるのかも
知れない。大きな窓から雄大に見える岩山を見ていてそう思えた。

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中庭へと抜けられる客室。ガス暖炉がポカポカ。

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床はテラコッタタイル、チェアはメキシコ製の豚革ソファ。

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夕食に頼んだリブアイステーキが美味しい。

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サンタフェにあるジョージア・オキーフ ミュージアム

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ジョージア・オキーフのアビキューの家。

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ツアーでのみ見学出来る。

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ガイドが庭を説明中。写真は家の外のみ可能だった。

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家からみた景色。

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アビキューの家からさらに北へ進んだところにあるゴーストランチ。
環境はより過酷だ。

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ゴーストランチへの近郊で見た岩山

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乾いた景色が広がる

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ゴーストランチでみた施設。教育のための宿泊プログラムがあるようだ。

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サンフェリペ・プエブロ コーンダンス San Felipe Pueblo, Corn Dance [2016 USA Puerto Ricoの旅]

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アルバカーキーから北へ20分ほど走ったところに、サンフェリペ居留地がある。
ここはkインディアンの部族の居留地で一般の人間は入ることは出来ない。
ただ、毎年5月1日は「コーンダンス」という収穫を祈って踊る伝統的な部族のお祭り
の日で、外部の人間も村に入ることが許されている。

日本にいるときから部族の生の姿に接してみたいと思っていたが、ちょうど旅行期間中
に運良くお祭りの日が重なり訪れてみることにした。

村の入り口から渋滞のノロノロ運転が始まっていた
ノロノロと道を進み部落の中を通過していく。村の様子はどこか中南米の片田舎風でも
あり、その素朴さ、ある意味での貧しさがアメリカにいることを忘れさせる。
村のあちこちに部族警察が立っている。警察といっても若い部族員がお揃いのTシャツ
を着て立っているだけでアメリカの警官とは大違いだ。

何とか村の外れに車を駐車させ祭りの場所へと歩いていく。すれ違う女が伝統的な
幾何学模様のブランケットを身にまとっている。顔立ちはインディアンの血を引いていると
思わせるものだ。中には日本にいそうなおじちゃん顔も見かけ、ベーリング海峡を
超えてアメリカ大陸に渡って行った我々と同じ種族なことを想起させる。

ようやくだだっ広い広場に出た。そこには素朴な食べ物の屋台と商品を売る店が
ちらほらある。その中を人々が行き交う。ほとんどが部族の人達だ。子供達が走り回って
遊んでいる。どこか懐かしさを感じさせる風景だ。カメラを取り出し1枚写真を撮ると
向こうから来た一団の一人に、「撮影は禁止だよ。見つかると没収されるよ」とたしなめ
られた。すぐさましまい、歩いて行くと音楽が聞こえてきた。その方向へ進んで行くと
人だかりがあった。人混みを押し分け中に入ってみた光景は生涯忘れられないものだった。

建物の真ん中に学校の運動場くらいの広場があり、そこに300人ほどの人がリズムに
合わせて体を揺らしながら前進している。正面の建物の上部には、バッファロー、エルク、
鹿の頭の剥製が合計9体掲げられている。男は上半身裸で民族衣装の後ろにはキツネの毛皮
を垂らしている。女は黒の民族衣装でモカシンを履いている。気温は低くかなり肌寒い
日であったが、男達が寒がる様子は見られない。観客も部族民が多く、白人の見物客は
わずかだ。

しばらく踊りの様子を眺める。周りを取り囲む岩山の風景と大勢のインディアンの末裔
達が集まっているシチュエーションに呆然と立ち尽くしながら感性のアンテナをフル回転
させる。しかしただただ目の前の光景が目と耳を通じて圧倒的なパワーで押し迫るのを
感じるのがやっとだった。

この日に旅行に来れたことに何か運命的なものがあるのではと思いたく糸口を探す。
しかし何かが起きることはなかった。
ただ吹いていた風の音とインディアンの末裔たちの表情はいつまでも脳裏に残っている。


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